文化講演会:ゴーギャンの野性

最近は不況の影響か、さっぱり仕事がなく、家でゴロゴロと過ごしています。しかし、自宅警備ばかりというのも飽きるので、近くの区民会館で行われていた講演会なんかに足を運ぶことにしました。専門外のことなので、間違った解釈もあるかもしれませんが、興味深い内容だったので、講演のメモをブログに書きおこすことにしました。


文化講演会:ゴーギャンの野性
講師:東京国立近代美術館主任研究員 鈴木勝雄
於:7月28日 東京都北区・北とぴあ


◆イントロダクション
ゴーギャン展 2009
2009年7月3日(金)−9月23日(水・祝) 東京国立近代美術館


講演の本題に入る前に、講師の方から、ゴーギャン展 2009の主旨が説明されました。ゴーギャンに関しては、1987年に約150点の作品を集めた展覧会が行われています。今回は、前回行えなかったことをしたいということが、念頭にあったようです。具体的には「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館)の展示ということになります。


「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が海外に出るのは、フランスへの2例を含め、今回が3回目とのこと。“皆既日食”よりもレアなケースで、この作品を日本で見られる最後の機会ではないかと思っているとのことでした。


ちなみに、現在は1日3000人ぐらいの入場者で推移しているようです。ゴッホ展のような1日1万人ペースでも耐えられるだけの準備をしてあるとのことなので、今行けば、ゆっくりとゴーギャンの作品を鑑賞できるようです。なお、今回の展示作品数は約50点とのことです。


◆野性の解放
画家ゴーギャンは、タヒチに行ったことで大きく才能を開花させたと思われがちですが、実際には、タヒチに行くまでに、独自のスタイルを確立しています。今回の展覧会では、ゴーギャンがどのような過程で、最高傑作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描くに至ったか、その道筋が時間軸に沿って分かるように展示がされているとのことです。


ゴーギャンは元来、株式仲買人でした。趣味で絵画を描いたり、印象派の作品を集めていましたが、1883年に突然芸術家として生きる決意をします。このとき、ゴーギャンは35歳。ゴーギャン1903年に亡くなっているので、その芸術家としての活動は、僅か20年間だったということになります。


・オスニー村の入り口(1882-83年)

当初、ゴーギャンの主題は「田園風景」でした。印象派の画家ピサロらとの交流があったゴーギャンの作風は、印象派といえます。


・愛の森の水車小屋の水浴(1886年)

しかし、パリの喧騒から離れたブルターニュ地方で素朴な人間生活に触れることで、ゴーギャンは内なる野性に目覚めることになります。


また、1887年のマルチニーク島への滞在では、“熱帯”への啓示を受けることになります。幼少期をペルーで過ごしたことや、水夫として世界中を旅した経験、そうしたバックボーンを経て、ゴーギャンの絵画は色づかいが鮮やかになっていきます。


・説教のあとの幻影(1888年)

ブルターニュ地方で描かれたこの作品には、明確な輪郭線、平坦な色面、鮮やかな赤の色彩が使われています。このように、ゴーギャン独自のスタイルが確立されていきます。


・海辺に立つブルターニュの少女たち(1889年)

純化された背景に対し、圧倒的な存在感を放つ2人の少女。はにかんだ表情が印象的です。


・黄色いキリスト(1889年)

この後、ゴッホとの共同生活があるのですが、この説明は時間の都合上割愛。ゴッホとの共同生活と関係があるかは不明ですが、ゴーギャンの絵画にキリスト教的な主題が見られるようになります。


・純潔の喪失(1890-91年)

ゴーギャンは近代生活に対して批判的なスタンスをとってきましたが、近代化の波はブルターニュ地方にも訪れることになります。そして、ゴーギャンタヒチに向かうことになります。


<要点>
「画面の単純化」「色彩の表現力」「謎めいたキリスト教的主題」「重要なモチーフとしての裸婦」といったスタイルは、タヒチに行く前に確立されていた。


タヒチ
ゴーギャンの滞在地はタヒチ以外にもマダガスカルやトンキンも候補となっていました。しかし、ここで留意すべき点は、いずれの土地もフランスの植民地であり、未開の土地ではなかったということです。タヒチの首都パペーテには、大きな街でした。ゴーギャンパペーテを離れ、さらに奥地で暮らすことになりますが、ゴーギャンはフランス人画家であり、守られるべきゲストという立場にありました。このことは、ゴーギャンの限界ということができます。


・小屋の前の犬、タヒチ(1892年)

この絵画の構図は、遠巻きに女たちを見つめるゴーギャンの視点と考えることができます。また、多くの研究者が絵画に描かれる“犬”は、ゴーギャンの分身であると指摘しているようです。この絵画からは、ゴーギャンタヒチの間にある心理的な距離感を読み解くことができます。


・かぐわしき大地(1892年)

ゴーギャンはテハーマナという女性との出会いを通じ、タヒチとの距離感を縮めていきます。また、文献などからも、タヒチの歴史を学んでいくことになります。


◆我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか


・異国のエヴァ(1890/94年)

「かぐわしき大地」の構図は、「異国のエヴァ」と似ています。このことから、主題が同じではないかと容易に推測できます。そもそも「異国のエヴァ」も、ジャワ島ボロブドゥール遺跡の仏教レリーフをモチーフにしています。このように、ゴーギャンの作品では同じ主題が繰り返し描かれてます。こうした予備知識を踏まえて「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を鑑賞すると、違った印象を受けるかもしれません。


・我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか(1897-98年)

「我々はどこから来たのか」「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」という3つの問いは、絵画の右側に赤子がいて左側に老婆がいることから、右側から順に当てはめることができるのは間違いないとされます。しかし、それ以外のことは不明な点が数多くあります。


まず、右側の赤子は、誕生を祝福された存在としては奇妙です。そばにいる3人の女性との関係も不明です。誰が赤子の親なのかは一切説明されておらず、1人で眠る赤子は、孤独な存在と考えることもできます。


中央の人物は性別が不明ですが、ポリネシアの男性にしては随分華奢で、中性的な印象を受けます。また、果実の説明もありません。どの木に実った果実なのか? それとも天に差し出しているのか? 天からの贈り物なのか? そうした謎を含んでいます。


左側の老婆は不可避の死を象徴しているようですが、その近くには青く光る偶像が存在します。これは“月の神ヒナ”で、再生のシンボルとされています。こう考えると、霊魂の不滅というメッセージとも捉えることができます。


そもそも「我々はどこから来たのか」「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」という3つの問いは、答えのない問いとも言えます。


ゴーギャンの作品はヨーロッパで発表するために描かれていたので、19世紀末のヨーロッパ人に向けたメッセージだったということができます。それは、タヒチの裸婦が持つ、キリスト教的な価値観を跳ね除ける力強さだったかもしれません。その作品から、私たち現在の日本人がどのようなメッセージを得ることができるか。それを楽しみに、展覧会を楽しむと良いでしょうとのことでした。